二人で見た未来は違ってた
068:鮮やかな未来を夢見てたあの頃は、今は遠く
どろりとした。泥濘に嵌まっているかのように手脚は重い。それいで足首はカチリと固定されて動かず泥濘だと思ったものは砂礫で蟻地獄のような紡錘状の中心に葛はいる。砂が脚元へ呑みこまれていくように段々と砂の嵩がましていく。膝が埋まり腰が埋まりこのままだと葛の体すべて呑みこんでしまう。葛は思考の暗渠に愕然とした。この瞬間の直前まで葛はどうしたらいいか判っていて迷いもなくてその筈だったのに、今の葛は何をどうしたら良いかさえ判らない。砂が埋まる。足首は動かない。手が差し出された。二つだ。まだ年若い方はしきりに掴めと言わんばかりにつきだしてくるが少し節の目立つ男の手はただ穏やかに葛を待つ。そのどちらの手を取るべきなのか葛は迷った。助けを借りるということに不慣れなことと、刻一刻と沈んでいく焦りとで葛はどちらの手も取らなかった。暗渠からにょきりと伸びた二つの手。
声さえ立てずに葛の体はとぷんと泥濘のような砂礫に埋もれた。
「――…!」
がばりと跳ね起きる。そこは砂も泥もない清潔な部屋だ。葛にあてがわれた一室だ。三好葵といういささか乱暴だが愛嬌のある男と二人で写真館を営む二階だ。通いは大変だろうという案外安易な発想で二階を居住区域に出来るこの建物は選ばれた。毛布を握りしめる葛の手がぶるぶる震えていた。ふーふーと獣のように荒い息に肩が上下する。
「…ゆ、め」
恐ろしいようなおぞましいようなそれでいて覚えてなどいないのだ。気付いたら汗まみれだ。寝巻にしている服が張り付いて気持ち悪い。湯でも使いたいくらいだ。それでも部屋に設えた時計を見て時間を測る。夜半だ。夜明けには早い夜更けである。風呂を使うには遅すぎるし近所迷惑にもなりかねない。
この不安定さは今に始まったことではないのだ。葛は壁に背を預け、腰へ纏うように毛布を巻きつけ座禅を組むように胡坐をかいて深く息を吸う。腹へ溜める心算で息を吐き切り深く吸う。軍属として精神鍛錬のすべを教わって来た。暗渠のような夢や不愉快なことで眠れないことがあるときなどはいつもこうする。だが今回ばかりはそれさえも効果がない。理由は判っている。
「高千穂、勲」
葵が幾日か拉致された。結局無傷で帰ってきたから良いものの、そのあたりから葛達の中で高千穂に対する影響力が変わり始めた。直接接触したと上層部に報告してある。だが葛には誰にも言っていない秘めたことがある。
高千穂勲は非公式に葛へ接触してきた。任務として港湾部へ紛れ素性もごまかしていた。それをあっさり見破った高千穂は葛に合わせながら情報を吹き込んでくる。さぁ、君はどうする。高千穂は葛が欲しいと言った。葛の中に初めて生まれた迷いだった。今までは葵とともに見る未来こそが唯一であり葛の愉しみでもあった。組織によって構成された組み合わせでも肌を合わせれば情が通う。葵が寝物語に語る荒唐無稽な未来図を聞かされるのが葛は実は好きだった。本当にそうなったら、いいな。いつもそこで葛が言葉で結び、葵が照れくさそうに笑いながら枕へ顔を伏せる。そのまま二人でまどろむように眠りへ落ちていく。すさんだ生活の中の潤いだった。
そこに新たな素因が加わってしまった。葵と似て非なる未来図。しかも実現のために事態が動きだしている。冗談だよ、ではすまぬ。君が加わってくれたらと、想ってね。穏やかな物腰と洗練された仕草。軍人であった高千穂は葛の目指す未来へ到達したものだ。かつて葛は予科生として将来軍人になるつもりであった。そう言う家系であったからそういうふうに育てられた。その葛の将来の夢が姿を実像を持って現れ、自らの計画に加われと甘く囁く。君は聡明だ。この国の未来さえも、君には見えているかもしれんな。滑らかに動く唇。葛より年長でその分年を経た落ち着きが備わっている。葵のような騒々しさは微塵もなくあくまでも相手を尊重する。対面した際に、ではあるが。対面にいたるまでの経緯に好悪や善し悪しの区別はないらしい。
「たかちほ、いさお、か」
どさ、と寝台に伏せた。頬へ触れる敷布の感覚にそう言えば高千穂との接触以来、葵との交歓を断っていることに気付いた。そろそろ文句の一つも言われるか。だが葛の中から高千穂の影は消えなかった。陽炎か極光かのようにおぼろげでそれでいて確実に存在した。忘れることは出来ない。本来であれば上層部へ報告にもいかねばならないだろう。それでも葛は胸に秘めたままこうして日々を暮らしている。
君にその気があるのなら
私が君に見せてやれる未来がある
「みらい、なんか」
膝を抱え込むように丸まって寝台の敷布を乱す。人はこういうときに、泣きたいと思うのだろうかと葛は目を瞬かせながら思った。艶めく黒曜石は一雫さえ落涙しなかった。
「葛ちゃん、どうしたの」
ぴた、と葛の手が止まる。染みになると気づいてペン先を放す。流麗な筆で書かれた書類は何とか無事だ。葛は肩を上下させるほどの深い嘆息をしてから葵の方を見た。葵はいつも通り接客用の長椅子に陣取っている。背もたれの上へ行儀悪く顎を載せて冗談めかしているがその肉桂色の双眸は本気だ。葵はなんというか、勘がいい。人が隠すことを見抜くすべに長けている。それも直感で自然にこなしてしまうから配慮として訊かずにおこうという気遣いはない。疑問に思ったら、見えたら、葵はすぐに訊いてくる。
「どうしたの、とは?」
葛は長丁場の心算でペン先を反古紙で拭った。洋墨は分離しやすく錆つきやすい。
「すっと寝てないことは良いんだけどさ。気分が乗らない時とか時間がないとか体調悪いとかいろいろあるから。でもそうじゃなくて葛はなんか隠してるよ、オレに」
「お前がとっておいた揚げ饅頭を客に出したことか」
途端に葵が苦虫でも噛みつぶしたような顔をする。そのこと自体も不愉快だが、葛がその事柄を隠すために持ち出したことを見抜いての不愉快だ。葛にはそれが手に取るように判る。葵の心情は案外読みやすい。表情や仕草に出るし何より口が好く動く。
「やっぱあれ葛ちゃんの仕業だったんだ?! ってそれはどうでもいいの! もう食べられちゃってないからそれはいいの! そうじゃなくてさ、そうじゃない、あの、なんか」
葵が珍しく言い淀む。間が悪く客もこないから話が終われない。葵の肉桂色は瞳孔が透けるように薄い。己の黒曜石とは違うから最初は見える景色の色は違わないのだろうかと茫洋と思っていた。
「葛ちゃん、オレに隠し事してない?!」
直球だ。葛はふぅと嘆息して眼を伏せ顔を背ける。応える心算はないと言わんばかりの態度に葵が噛みついてくる。
「だってさぁ葛時々ぼーっとしているし! 料理の味付けも変わったし写真の腕が落ちたよ。何があったの? 何か心配事でもあるの? オレには言えないこと? あの、機関の関係?」
葛は何も言わない。葵は善意で葛を問い詰めている。だから葛は善意で応えなかった。何でもないと嘘を言うのは簡単だ。葛の無表情と仕草から葵はそれが嘘だと見破るだろう。だが葛がそう言うからにはそうしなければならないのだと同時に悟って、そう、と終わるだろう。それが正しい選択なのだろうと思う。だが葛は否とも応とも言えずに黙りこくった。
「オレが高千穂勲に拉致られてからおかしいよ、葛」
ざくりと刃が刺さったような気がした。だがその動揺は鉄壁の無表情には表れない。軍属の教えとして感情をあらわにすることは忌むべきこととして教えられたから葛もそうしつけられている。動揺さえも隠す。
三好葵君はね、うん、少し違っていたからね
でも君なら私の望む未来が見えるんじゃないかと思ってね
高千穂勲の声が葛の脳裏でこだました。葵は留学経験もあるというからある意味で視野は際限なく広い。多少のことなら容認する。その分理解も深く、だがそれゆえに頑固だ。葵は極めたことは最後まで曲げない。感情的に走って任務の成立をあやしくさせたことさえある。葵の中で最優先事項は任務ではない。そこが葛と葵の数少ない相違だ。軍属出身の葛は任務遂行と完遂が最優先事項であると考える。高千穂勲はそれでもいいと言った。むしろその凛とした芯の強さが私を魅了するよ。高千穂勲が、嗤う。声がする。葛は頭をかきむしって寝台の毛布にくるまってしまいたかった。膝を抱えていると己の拍動が聞こえてくる。甘えを赦されなかった幼少期を迎えた葛はくじけそうなときはいつも己の拍動で奮い立ってきた。
葵は怪訝そうにだがどこか心配そうに葛を窺う。聡明な肉桂色の双眸が収縮する。
「オレ、なんかした? 言いたいことがあるなら言ってよ。直せるところは直すようにするから」
「なんでもない。俺の問題だ」
「てことはなんかあるんだ。ねェそれってオレには手伝えないことなの? 葛ちゃん一人で抱え込む癖あるからさ。しかも無理して抱え込むんだ。だから本当に何かあるなら言ってよ」
痛い、と思う。葵の優しさが痛い。葵は心底葛のためを思っていると、判るから余計に痛い。裏切っている。足元が沈んでいく。夢で見たときのように砂礫に吸いこまれるようにして葛の喉元まで砂が埋まる。固定された足首。動けない身体。沈んでいくしかない状況。葛が高千穂勲のことを持ち出せば葵は必ず関わってくるだろう。それだけは避けたかった。無駄な危険に葵を晒したくなかった。葵にはそのまま、三好葵として幸せに暮らしてほしいと淡い希望があった。それが葛の見た鮮明な未来だった。葵は組織や葛からさえも解放されて一人で生きて行ける。だからそうしてほしかった。そうすれば無駄な殺生もせずに済む。特殊能力を使う頻度も減るだろう。あれは案外疲れるものなのだ。葛自身も特殊能力者としてその独特の奥っかわの疲労に覚えがある。いたい。お願いだからもう、お願い。
「俺の問題だ!」
葛の激昂が殷々とその場に響いた。
葛は身柄を高千穂勲に拘束された。話をした。これからの日本と世界と。それは蠱惑的に葛を魅了した。高千穂勲は予想以上に人心を掴むすべに長けている。そして己はそこへ嵌まろうとしていると感じ取っていたがあえて抜け出す気はなかった。幼いころに聞いた理論。高千穂勲はそうかあの人がねェと笑った。高千穂勲は手持ちの切り札をいともあっさり簡単に葛に晒す。そのうえで選べという。三好葵の待つ桜井機関かこの、我々とともに行くかを。高千穂はあっさりと言った。この期日に君を引き渡すことになっている。それまでに決めてほしい、と。
結果的に葛は迎えに来た葵達をおいて高千穂勲を助けて消えた。葵の声が何度も何度もこだました。
葛! 何してるんだっ葛! かずら!
愚かしい真似だと判っている。所属団体から切り捨てられる要因を己は作っている。それでも葛は己の能力で高千穂勲を助け、その場を離脱した。焔に囲まれた熱暑からの離脱場所は川べりだ。さわさわと小川の水の流れが縁の葉を揺らす。遠くに葵達が仕掛けた名残の焔が見えた。橙に揺らめく焔。あそこには愛しんだ葵がいる。戻ろうと思えば戻れる。能力の制限内だ。実際には可能だ。だが葛は高千穂を選んだ。二人して夜露に濡れた草いきれの中に身を投げ出す。
「ははは、君の能力は聞いていたが実体験するとまったく驚かされるな。今までよくも目立たずいたものだ」
葛はその場で押し倒された。唇を奪われる。高千穂が葛の襟を弛めてタイを解き、シャツの釦を外していく。仄白く輝く葛の白い肌があらわになる。汗の粒が葛の発光するような仄白さに雲母引きの艶を与えた。
「蠱惑的な君だね」
「…俺はあなたを選んだ。それが事実です。好きにすればいい」
高千穂は穏やかに手を引くと目を閉じてからゆっくりと眼を開く。同じように黒曜石が潤みを持って凪いでいた。年長者としての落ち付きと揺るがない心情。態度や仕草にもそれは影響する。
「おいで。私の塒へ案内しよう。客分として迎えるよ」
葛は体を起こした。背中の上着についた湿った泥を高千穂が何気ない仕草で払い落してくれる。
どうしてだ! 葛!
葵の叫びがまだ耳にこだます。葛は黙ったまま高千穂の後をついて行く。前を見据える。射抜くように高千穂の背中をとらえながら葛の目が違うものを見ていた。必死になって葛の名を呼ぶ葵の声と顔。これを忘れてはならない、生涯。葛の黒曜石は凛と煌めき燐光を放つように艶を帯びた。
「未練があるかい」
くっくっく、と高千穂が笑う。嗤う。行く先には車が用意してあった。これで葛は葵を含む桜井機関と縁を断つことになる。車に乗りながら思った。とどこおりなく発車する。
さよなら、あおい
今までありがとう。俺と違う未来を見ていた。俺はそれが違うと判断を下してそれでも戻って来いと言ってくれた葵へのせめてもの。
さよなら、あおい
車の振動が眠気を誘う。何度か特殊能力を使用した身としては疲労が溜まっている。高千穂の手がそっと葛の目蓋を閉じさせた。
「眠ると良い。目隠しをしてあげよう。こちらとしても移動経路を知られたくはないのでね」
拗ねらかな絹のような黒布が葛の両目を覆った。訪れた暗闇に葛の体は眠りに落ちた。
砂に埋もれるあの夢をまた見た。
暗渠から伸ばされる手は一本だった。
《了》